20年前の羽田成田や蘇我の写真
バブルの頃の羽田エプロン。JALもANAもJAS(旧TDA:東亜国内航空)も昔の塗装。JALは2つ前の塗装だし、ANAもダヴィンチのヘリコプターマーク、JASに至ってはもう会社自体がない。遠くにぼんやりと始まったばかりの埋め立てが見える。
モヒカン塗装の、ANA(トライスターL1011)。最近の航空機に比べると、ずいぶんずんぐりした形に見える。
ボーディングブリッジは、確か5スポット程度しかなかった。残りはすべてバススポット。便数も今の半分程度だと思うが、今より車や人の動きが多くて眺めていて飽きない空港だった。
JALのDC10。タラップも屋根ありと屋根なしがあって面白い。手前のバスも、新旧混ぜて使われていて、今よりも統一感がない、よく言えばバラエティのある風景だった。後ろに着陸するANAのジャンボは、旧C滑走路だと思う。この着陸ルートは、大井埠頭の上を旋回するが、今のCにくらべてはるか内陸側を通るので、急なバンクをつけてのアプローチ。羽田カーブなどと呼ばれていた。
ボーディングスポット不足を解決するべく考えられたのであろう、バス客室がそのまま航空機の高さまで上昇して乗り込める車。こういった苦肉の策的、場当たり的な感じが、いかにも昭和っぽい。
旧B滑走路に着陸した、JALの747。今のB滑走路より少し京浜島よりにあったので、離着陸ともに迫力が今とは大違いだった。88年か89年に沖合に現在のA滑走路が出来てからは、夏の南風時は、この真上を低高度で着陸機が通り、続けざまに旧B滑走路からの離陸が見られたこともあった。
中華航空公司のジャンボ。当時は中国が成田発着、台湾(中華民国)が羽田発着だった。羽田からの中華航空は台湾以外にもハワイ線などがあったはず。後ろに見えるのが懐かしいターミナル地区と怪しさたっぷりの管制塔。
何年か後の写真。JALやANAの塗装が現代に近くなっている。ターミナル地区の管制塔は2本あって、黒くて低い方は、昭和30年代に使われていたものが廃墟的に残っていたようだ。そして手前の運河にはいつも警戒船がいた。
展望デッキから見たターミナルと管制塔とレーダー。使われなくなった黒い管制塔は、現役時代は見ていないが、資料写真によると白かったようだ。なぜ現役を退いて黒くなったかは不明。
これは買った絵葉書から80年代の成田。当然ターミナルはまだこれしかない。DC-8が駐機していたり、滑走路脇の燃油タンクが紅白幕だったり、いろいろ古いけど、なぜか今よりも「国際空港」らしさがあった気がする。それに古くてくたびれた羽田ばかり行っていたので、この頃の成田は、すごく輝いてみえた。
そんな時代に羽田の沖合に、突如蜃気楼のごとく現われた今のターミナル西地区。まるで未来だった。92年頃京浜島から。
おそらく蘇我の川崎製鉄。第五高炉がこの中にあるのか分からないけど、とにかくまだ高炉が元気な時代。89年の日付が入っている。
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コメント
オナ二−の手伝いで行ったら、
野外露出の手伝いさせられたでござる(´・ω・`)
http://yahoosearch.me/hen/ngxin1z
投稿: ブルマ侍 | 2010年10月16日 (土) 20時31分